四代名倉鳳山 硯の研究


雑誌 書道研究

特集「文房四宝」の研究 (硯)

内容  

北畠叟耳 きたばたけそうじ

北畠五鼎 きたばたけごてい

相浦紫瑞 あいうらしずい

竹之内裕章 たけのうちひろあき

等、中国硯研究家諸氏と共に四代名倉鳳山が日本の硯の研究家として長年の研究成果を発表している。

 

平成元年 2月1日発行


「和硯」概観

 

      名倉鳳山(日本工芸会正会員)

 今日、わが国において目にし得る古い硯の例を、時代を追って見ていくなら、最も著名なものの一つとして、まず奈良県坊山三号古墳出土の「百済三彩円面硯」が挙げられる。この硯は、古墳時代末期(七世紀後半)の墳墓からの出土品で、陶製の円面硯である。宝珠の紐を持つ蓋がつき、本体は高い外縁とドーナツ状の海、中央の磨墨のための陸も外縁と同じ高さで円形に配し、側面には足が施されている。釉は百済の三彩ともいわれているが、また、南朝期から初唐にかけて中国からの渡来品と考えられる。従って、この最古の硯は、厳密には和硯とはいえそうにない。純国産と考えられる硯はというと、奈良時代からの出土例をみている。それらは、多くは陶製で、中国の様式に倣った円面硯が主流であり、これまでに百五十例以上が知られている。それは例えば、平城宮跡から多量に出土している墨書きされた木簡類の存在から推しても、墨や筆とともにすでに多くの硯が生産され、実用に供されていただあろうことは、想像に難くない。また、平城宮からの出土硯には、円面硯ばかりでなく、一般に「形象硯」と呼ばれる、宝珠形や鳥形をした硯の遺例も、少数ながら知られている。

伝世品として名高い硯としては、何はおいても、正倉院宝物中の「青斑石硯」を挙げなくてはならない。名前からすると青斑石で作られた石硯のようだが、硯の部分は須恵器のような硬質の陶でできている。それが格狭間透しの床脚を備えた紫檀を台として、四片の青斑石を継いだものの中にはめ込まれている。いわゆる風字硯と呼ばれる形の硯で、色合いは一見備前焼のようだ。が、之が国産か渡来品かは、今後の研究を待つ必要がある。

 その他。古い伝世品としては、法隆寺や熊野速玉大社の猿面硯がある。やはり須恵器系の陶硯で、猿面のように湾曲し、渦状の紋がある。これらは、いずれも奈良時代のものである。

 藤貞幹の著『好古小録』にも。古硯の話がいくつか採られている。例えば、「東大寺、古陶猿頭研(硯)アリ、寺伝テ、僧良弁手沢丿研ト云。是否ヲシラズ」とあって『朝野群載』などを引いて考証をしている。また別に、「昔人ノ所謂う瓦硯ハ、イカナル物ニヤ、露及難冠木(かいき)(並古瓦硯ノ名)ヲ書生故実抄ニ、宝物ト称シテ、石硯ニハ名アル程ノ物ナシ」とある。また、「古昔、瓦研陶研ヲ用テ、石研ヲ賞セズ。名アリ存スルモノハ、皆異邦ノ研也」とある。

 このような記述や、現像する遺物などから判断して、わが国では、当初はまず陶製の硯が作られ、使用されていたことが明らかである、とはいえ正倉院のものは、工芸品としても優れたものといえるが、きわめて特殊な例であり、また産地も不明なので、和硯の○矢とすべきものは、やはりごく普通の陶硯、実用の硯であるとみてよいだろう。

 ついで平安時代にも硯は実用品として重用されたが、取り立てて大きな変化はなかったようである。材質的にも、陶硯、瓦硯など焼き物が主流だったとかんがえられている。文献のうえでは、源順(九一一〜九八三)の『和名抄』の中に「須美須利」と見え、また絵画の中でも「源氏物語絵巻」夕霧に、大きな硯箱に入った石硯とおぼしき長方形の硯が見てとれる。

 絵巻中の石硯が、中国のものか日本のものかは知る由もない。だが、平安期のせ石硯の遺例とし、知られているものがある。それは、鞍馬寺経塚から出土したもので、硯の海の三方に縁をめぐらすが、下方のやや幅広くなっているところに、縁を持たない。つまり、風字硯の体裁に似た石硯といえる。石質は水成岩の粗質のものだが、きわめて少ない和製石硯の例であり、和硯史上貴重なものといえる。

 平安時代は、書道史の上では和様書道の盛んだった時代であり、能書家が多数く世に出た時代である。もちろん、そうした能書家の座右には必ず硯があった。それら能書家の名を冠した硯が「硯譜」などの古文献中に散見されるが、これは硯式というよりは、脳書家が使ったという伝承が記録に残っているのであろう。もちろんこれも確証はない。

 さらに時代が下ると、源頼朝が奉納したと伝える石硯が、鶴岡八幡宮に伝来する。長方形で、四方に縁を持つ。石は赤がかった紫色で、今日いう赤間石かともいわれている。その他、文献上に残る硯石名などを見ると、どうやら作硯したものというよりは、硯の形状をした自然石を、そのまま硯として用いた趣もあり、今日考えてもとても硯にならぬであろうような加工不可能の石も、硯石として挙げられている。これらのことから、当時もなお、石硯は少数派であったようだ。

 国産の石材による作硯は、室町時代の終わり頃から本格化していったものらしいく、それは、商業活動が徐々に盛んになり、町人文化が隆盛をみるにつれて、一般社会に硯の需要が広がったことも一因だろうと思われる。商家の売り掛け帳から

名称がきている「カケ硯」や、行商人の「タビ(旅)硯」という硯名も、そうした経緯を示しているものだろう。そして、この辺りから、和硯も陶硯から石硯へと、流れがかわっていくのである。とはいえ、まだあくまでも実用硯であった。

 わが国で作られた硯、それも愛玩品としての出現は、桃山時代以降と考えることが出来る。もっとも、まず見られ始めるのは、文房具というよりは貴族階級の調度品としての性格が強い、硯箱である。そして、その“部分品”としての「料紙硯」に代表される硯は、まさにその用のために、専門職人の手によって作られたものと考えられる。

 また、この時代から盛んになってゆく茶の湯の中で、茶人の趣味による陶硯の製造も、盛んになっていった。特に、織部焼、備前焼、唐津焼、志野焼などで、釉や形に意匠を凝らした硯が見られ始め、今日にも多く伝えられている。この傾向は、江戸時まで続くが、江戸期の一般庶民の中で和硯は、実用の硯として、特に寺子屋の発達とともに、大きな需要を抱えることになった。硯の寸法企画も、この当時のものが今日なお生きているだが、もちろん寺子屋で使用された硯は、実用一点張りである事に変わりはなかった。一方、大名・貴族や学者らが好んだ硯は、端渓や歙州などの名石による中国硯であり、彼らは、ほとんど和硯を顧みることはなかったようである。しかし、唯一、鳥羽希聡の『和漢研譜』(寛政七年刊=一七九五)には、中国硯と並んで和硯が扱われている。これは、わが国における初めての「硯譜」専著刊本でもある。三巻三冊よりなるこの硯譜では、巻一が和硯の解説にあてられている。

 この『和漢硯譜』に見る硯石を、私なりに調査してみた結果を簡単に紹介すると、別表(七四、五頁の表参照)のようになる。

 明治になると、義務教育の実施によって、学校教育の中で、「書き方」「習字」の授業が定められ、硯に対する需要は一挙に増加し、これによって学童用硯を製造し得る条件を備えた産地(硯材採取が容易で、加工が楽な軟硯材を産出する地域)は大いに潤うところとなったが、それは必ずしもわが国の製硯業全般を潤したわけでも、また質の向上をもたらしたものでもなかった。

 この当時も、愛玩硯としての需要は、あくまでも中国硯に傾き、和硯は決して主役にはなり得なかったのである。しかし、そうした中でも、少数ながら和硯のよさを主張した人がいた。例えば、後藤朝太郎は、和硯の各産地を探訪し、日本産の硯材についての記録を残し、愛硯家に和硯の魅力を訴え続けたのであった。

 こうして和硯は、幾多の苦難を乗り越えて命脈を保ち、今日、民芸ブームの風潮もあってかその見直しの機運も高まる中で、作硯家の作風も徐々に、実用本意から大きく転換、作硯家の個性や特色を打ち出した作品的な硯が、活発に作られ始めている。それはつまり、これまで実用感覚一辺倒に流れてきた和硯が、中国硯の影響や硯材不足の現実の中で、天然石硯、鑑賞硯の作硯に本腰を入れ出したということである。そして、たとえば旧抗からの採石を再開する動きも出てくるなど、和硯を取り巻く環境は、今や大きく変わろうとしているのである。

 

 とはいえ、今なお多くの和硯産地は、未だ零細な家内工業によって成り立っていることも事実であり、日本独自の和硯文化を支える土壌は、必ずしも万全なものとなっているとはいえない。今後の課題も、また大きいといわねばならないのである。


わが国の代表的硯石

  そこで次に、私がこれまでに知り得たわが国の代表的硯石を紹介して、和硯に対する江湖のご支援とご理解を仰ぐための参考に供したいと思う。

 

<木葉石>

 名の如く、木葉の化石をうまく利用した硯。産地は秋田県北秋田郡。『和漢硯譜』『好古小録』には、「越後木葉硯」とあるので、私は新潟方面を調べていたため、二十年も場所が分からなかった。入手するには、現地へ足を運ぶしか方法はないようだ。歴史はさほど古くなく、天和元年(一六八一)前後の発見と考えられる。石は黒色が茶黒色で、別名又川石、小又川石、小股白線石などと呼ばれている。

 

 <紫雲石>

 岩手県の東磐井郡か、大船渡市で作硯されている硯石。この石は別名が多く、正法寺石、三井石、夏山石、萩生石、日向石、瑞井石、中倉石。猿沢石などと呼ばれている。石の表情も多様で、このような石材は日本では珍しい。赤色系、濃赤から赤紫雲状のもの、また緑豆斑や白豆斑、緑石などがある。現地には作硯家も多い。

 

<玄昌石>

 雄勝石ともいい、雄勝湾に面して、多くの作硯家が、個人や工場などでそれぞれの規模で作っている。硯石の産出は、宮城県桃生郡雄勝町内の広い範囲に及び、石は淡黒色。かつて学童用の硯は、九〇%までが雄勝のもので占められていた時代があった。国の伝統工芸品に指定され、作硯家の協同組合もあり、陳列館も持っている。

 

<小久慈石>

 茨城県の産で、別名大子石、国寿石ともいう。この石による作硯の始まりは、佐竹藩主が献上品として作らせたもののようで、一般には採石させず、藩の管理下にあったらしい。石は黒色で石英質板が入っている。

 

<松渓石>

 硯材は足利市に算するが、硯を作っているのは栃木市である。青黒色や緑色のものがある。この石は、現代に開発されたもので、古文献にその名は見えない。かつてこの地に移り住んだ相沢春洋によって、世に名が伝えられた。

 

<奴奈川石>

 新潟県糸魚川市で採掘される。黒色、黒淡色のもの。この石は木葉石を探している時に知った。

 

<雨畑石>

 山梨県は富士川沿い、また支流にかけての一帯がその産地。全国的に知られている硯石の一つで、別に雨端石とも書く黒色の石。この硯は、高価なものから安価なものまで、どんなものでも入手が可能である。

 

<竜渓石>

 黒色や淡黒色をした石で、高遠石、鍋墨石、竹之沢石、鍋倉山石、横川石、深沢石、天竜石、伊奈石と別名の多い硯石である。長野県上伊那郡龍野町で作硯され、近年その知名度も増してきている。

 

<鳳来寺石>

 この名称は総称のようなもので、金鳳石、鳳鳴石、煙巌石の三種があり、別名も多く銀垂石、金垂石、赤林石、蓬莱寺石、金峰石、宝名石、鳳名石などとも称する。私の住む愛知県南設楽郡が採石地である。最も長い歴史を持つのが金鳳石で、残り二種は明治中期からのもの。

 

<那智黒石>

 三重県熊野市の山奥で採石、加工されている。あまり知られていないようだが、那智山の参道でも作硯しているひとがいる。市はやや堅く、まず旋盤加工の後、手で細部を仕上げている。古くは○石と呼ばれていたものだが、いつこの名称に変わったものかは不明。ほかに神上石、神溪石、鳥翠石、試金石、金付石といった別名を持つ。

 

<高島石>

 昭和の初めごろまでは、問屋方式の盛んなすずりの産地であったが、硯材の枯渇から、今日では内職程度のものとなってしまっている。採掘は滋賀県高島郡で行われており、石は青黒柳葉金色紋、線石黒微点紋である。

 

<鳳足石>

 『好古小録』にも見え、歴史的には古くからのもので、寺社に奉納された室町時代の古硯も伝えられている。福井県小浜市新保が産地だが、もとは宮川村で、その村誌にも詳細が載っている。

 

<清滝石>

 京都市右京区、愛宕山内が採石地。しばらく絶えていたが、近年復活した。貴重な硯石である。

 

<岩王寺石>

 別名王子石、若王子石ともいわれる。古文献では、この別名の方が通っているが、綾部市七百石町岩王子境内附近が採石地なので、この名称がよいだろう。「しゃこうじいし」と読む。

 

<高田石>

 岡山県真庭郡勝山町で作られている。別名神庭石とも呼ばれ、石色は青黒色で白緑井入り。高田硯は古文献にも見え、天正初年の事柄を記した『牧文書』や『毛吹草』巻四、また『和漢三才図会』巻七十八などに、高田の硯石について記述がみられる。

 

<諸鹿石>

 鳥取県八頭郡の産。別名竜頭石ともいう。黒色、茶色の硯石である。

 

<赤間石>

 山口県厚狭郡で作られている。採石と作硯は、下関附近から始まったものだが、今は楠町へと中心が移っている。昭和五十一年には、伝統工芸品の指定を受け、作硯も盛んで入手はしやすい。

 

<虎間石>

 愛媛県の産で、大変に粗い粒の硯材。というよりは石材という感じで、硯としてはふさわしくないもののようだが、石色は黄色に茶縞入の虎模様で、この名があるらしい。別名黄石、虎石、唐斑石、常慶寺石というが、今日入手できるかどうかは不明である。

 

<土佐石>

 別名源谷石、三原石、中村石とも呼ばれる黒色の硯石。その名の通り、高知県幡多郡三原村の産。歴史をさぐれば、古い文献にも名が出てくるが、今日に至る作硯は、さして古くから続いている物ではないようだ。

 

<若田石>

 長崎県対馬で、硯材として掘られている。別名対州石ともいい、淡黒色の石である。

 

<紅渓石>

 宮崎県の産だが、入手は現地へと足を運ぶしかないようである。延岡石とも赤渓石、八戸石とも呼ばれる。赤色または緑色の石。

     *           *

 

以上が、日本の硯石として代表的なものだろうと思う。もちろん、これらの硯石の産地以外でも、多くの作硯家が活発に硯作りに取り組んでいる。さして特色のない和硯と思われがちだが、やはりそれぞれに特色や持ち味が合って、それも魅力的なものである。そして、和墨の磨墨には、和硯が最もふさわしいと、私は確信している。 

 




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